太平洋戦争終了間近の広島市には、東京や大阪から疎開してきた大勢の子供たちが暮らしていた。労働力不足を少しでも解消しようと、中学生たちまでもが農作業などに従事させられる中、彼らは日本の勝利を信じ切っていた。そして1945年8月6日に原爆が投下され、建物解体作業中だった旧制広島県立広島第二中学校1年生321名全員が死亡する。